日本の動物画家の有名どころ『竹内栖鳳』を簡単に解説!            

こんにちは。
画家の佐藤 静です。

京都画壇の巨匠である竹内栖鳳をご存じですか。

江戸時代末期に生まれ、昭和初期まで京都で活躍した画家ですね。

ヨーロッパの絵画にも影響を受けて、その技法も自分のものにしています。

さあ、どんな画家だったか見ていきましょう。


竹内栖鳳(たけうちせいほう)・1864-1942

竹内 栖鳳(たけうち せいほう)は:元治元年・1864年京都に生まれた近代日本画壇の大家で、西洋画

に大きな影響を受け、これまでの日本画の技法を打ち破り、現在の日本画に大きく影響をあたえた京

都画壇というより日本画壇を代表する画家です。

帝室技芸員、帝国美術院会員で、第1回文化勲章を受章しています。

 

竹内栖鳳の絵を見てみましょう

ルリちゃん

ここで竹内栖鳳の絵を見ていきましょう。

 

 

「雪中燥雀図」1899年

1900年のパリ万博でこの絵が銀牌を受賞しました。

 

「大獅子図」1901年

パリ万博やヨーロッパ視察から帰国後に描いたライオンの『大獅子図』です。

西洋の画風から大きな影響を受け、動物園に頻繁に通ったり、写真を撮ったりして写実的に描いています。

これまでの獅子は当時なかなか見る機会がなかったので、想像の動物として描かれていましたが、西洋の影響を受けて本物を見て写生をシッカリしています。

この絵が評判をよび、多くの獅子の絵を受注しました。

 

 

「ベニスの月」1904年

この『ベニスの月』も西洋美術の影響を受けた作品であることがよくわかりますよね。

特に、遠近法を使って遠くのものを描いています。

ヨーロッパ視察中にターナーコローの影響を受けたことがよく伺えます。

「アレ夕立」1909年

これぞ日本画といった美人画ですが、顔を描いていません。

美人画は女性らしい顔を描くのが一般的ですが、栖鳳はあえて扇子で顔を隠しています。

どんな女性なのか想像を膨らませるような作品です。

 

ワンの助

この作品は切手にもなっていますよ。

 

またまた、美人画です

「絵になる最初」1913年

この『絵になる最初』は美人画を描く前に女性が着替えている場面でしょうか。

栖鳳に着替えを見られて恥じらっている様子のようです。

ルリちゃん

この様子が面白く絵にしたいと思ったのですね。

 

 

ここからは動物画を続けてご紹介します。

「喜雀」不明

庭に来たスズメたちが地面の何かをついばんでいます。

栖鳳が粟などをまいたのかもしれませんね。

それを喜んでつついているところを描いたのでしょう。

 

にゃんこロリン

さあ、栖鳳の代表作の登場ですよ!

「班猫」1924年

栖鳳の作品で最も有名な『班猫』です。

班猫の班は実際は斑の字を使うのが本来と思いますが、栖鳳はこの班の字を使っています。

猫の背中のフワフワ感が良い感じで、手で撫でてみたくなりますね。

何といっても猫の緑色の目に引きずりこまれます。

毛づくろいをしながら上目遣いにジッとこちらを見つめています。

見つめられると、見つめ返したくなりますよね。

この猫は、沼津滞在中にどうしても描きたくて、譲り受けて京都まで連れて帰ったほどほれ込んだようですが、留守をした際に居なくなったと言うことです。

 

にゃんこロリン

こっち見てるワッ!

「蹴合」1926年

こちらは闘鶏に使う軍鶏(しゃも)です。

軍鶏は脚が強くシッカリしていて、オスは闘争心が強く相手を蹴って攻撃します。

その蹴り合いを描いた動きのある作品ですね。

ワンの助

闘争心が弱かったり、よく負ける軍鶏は鍋になってしまうんだって・・・

 

「秋興」1927年

蓮の葉が半分枯れている秋の日にカモたちが休んでいる様子です。

蓮の葉はあまり描かず、主役のカモを細密に描いています。

栖鳳の「省筆」という技法で、よけいにあまり描きすぎないという描き方の特徴が出ています。

 

「宇佐義」1939年ごろ

このウサギも班猫と同じようにフワフワに描いています。

栖鳳は庭にたくさんの動物を飼って、それをモチーフとしてじっくりスケッチして描きます。

ウサギも飼っていたのでしょう。

 

「みゝずく」1933年

さすがにミミズクは飼っていなかったのかもしれません。

あまり写生を正確にできずに描いたような感じがしますが、雰囲気はバッチリですね。

ルリちゃん

みみずく、可愛く見えるけど一応猛禽なので、注意しておこう。

 

「清閑」1935年頃

子犬も昔から人気のモチーフです。

栖鳳の子犬もかわいらしいです。

フワフワの背中を撫でてみたいですが、起こしてしまいそうなので止めておきましょう。

 

ワンの助

円山応挙や長沢芦雪なども子犬を描いていますよね。
比べてみてどれが好みですか?

 

栖鳳の特徴

その画風は応挙から影響を受けた四条派を基礎としていますが、なんとか西洋美術に追いつきたいとの思いから西洋の写実画法などを意欲的に取り入れていて、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担いました。

そういった新しい風を嫌う守旧派からは「鵺派」(ぬえは)と呼ばれて揶揄されました。

これまでの日本画では虎や象などの猛獣を実写することはなく、狩野派に見る師の手本を描き写すだけで新しいことに挑戦しないことが当たり前でした。

とくにライオンは伝説上の生き物として伝え聞いた想像だけで描かれてきました。

従来の日本画の形態を変え、西洋画の技法や写実性を取り入れ、独自の画を追求しました。

自然美に重点を置いた風景画、骨格の正確さを用した人物画、感触がわかるような動物画と、どれもうなってしまう作品ばかりです。

パリ万博視察のために一年近く渡欧し、パリだけでなくフランス各地やイタリア、イギリス、オランダなども訪れていた栖鳳は、本物を見て描くリアリティのある動物画に目覚めます。

栖鳳の写生を重視して描いた動物画は「けものを描けば、その匂いまで表現できる」と評されるほどの緻密な描写力があります。

日本画壇の重鎮として知られる横山大観と画壇の双璧をなし西の栖鳳、東の大観と称されました。

また弟子の育成にも力を入れ、画塾竹杖会を主宰。上村松園や西山翆嶂、土田麦僊 等々京都画壇の大半を送り出しました。

 

おいたち

1864年京都市中京区御池通油小路の川魚料理屋「亀政」の一人息子竹内 恒吉(たけうち つねきち)として生まれた。

1877年(明治10年)13歳の時に四条派の土田英林に絵を習い始めましたが、1881年(明治14年)の

17歳の時に円山・四条派の幸野楳嶺の私塾入門。

翌年には楳嶺四天王(栖鳳と都路華香、谷口香嶠、菊池芳文の高弟4名)の筆頭となり、並みいる先輩たちを押しのけ私塾の工芸長となる。

1887年(明治20年)、23歳の時に結婚し、これを機に絵師として独立。

同年、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)修了。

1899年(明治32年)35歳で京都市立美術工芸学校の教諭に推挙される。

1900年(明治33年)、36歳の時に、パリ万博で『雪中燥雀』が銀牌を受賞。

1901年ヨーロッパの美術から強い影響を受け、帰国後西洋の「西」にちなんで号を栖鳳と改める。

1907年(明治40年)、文展開設とともに審査員となり、帝展(現日展)審査員になった。

1909年(明治42年)、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)開設とともに教授に就任

1913年(大正2年)12月18日に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。

1919年(大正8年)、帝国美術院会員となる。

1937年(昭和12年)に第1回文化勲章を受章。

1931年(昭和6年)に胃潰瘍を患ったことを機会に神奈川県湯河原町を静養のために訪れ、湯河原が気に入り定住するために天野屋旅館を別荘とした。前述の文化勲章受章の一報も天野屋で受けている。

1942年(昭和17年)天野屋旅館で肺炎のため78歳で亡くなる。

 

 

まとめ

竹内栖鳳は特に動物画に於いては近代日本画を代表する画家といっても過言ではないと思います。

円山応挙から続く写生に基づき実物をよく見て描くという考え方が受け継がれていますが、ヨーロッパ視察時に大きな影響を受けて西洋の絵画技法を取り入れ、新たな境地を作り上げています。

 

栖鳳が晩年過ごした東山艸堂(ひがしやまそうどう)を紹介したいと思います。

昭和4年に建てられた東山艸堂は栖鳳が晩年に13年間過ごした住居兼アトリエです。

敷地が1,300坪、建物が175坪ある壮大な屋敷で、現在はイタリアンレストラン兼結婚式場としてリノベーションされています。

京都府京都市東山の清水寺や高台寺、八坂神社があるメジャーな観光地の中心にあります。

機会がありましたら、一度足を延ばしてみるのも良いかもしれませんね。

住所を載せておきますね。

 〒605-0827 京都市東山区八坂通下河原東入八坂上町366

 

ここまでご覧いただきありがとうございました。