日本の動物画家の有名どころ『円山応挙』を簡単に解説!

こんにちは。
画家の佐藤 静です。

日本の動物画家紹介で円山応挙を取り上げますよ。

なんと農家の出なんですよ。

よく画家に成れましたね。当時の農家の子供は農家にしか成れなかった時代に!

小さいころに親がその才能に気付いて、外に出してくれたのでしょうね。

応挙もかわいいワンコを描いていますよ。

さあ、応挙をご覧ください。


円山応挙(まるやまおうきょ)・1733年-1795年

江戸時代中期から後期に活躍した日本画の絵師で、現代の京都画壇にまでその影響が続いている円山派の祖です。

京都の農家の次男として生まれ、石田幽汀に弟子入りしてその画風を学んだ後、西洋の遠近法や中国の沈南蘋の写生画を取り入れて描いた絵は、多くの人に受け入れられ人気を博しました。

応挙の代表的な作品

雪松図屏風

「雪松図屏風」は1786年ごろに描かれた六曲一双の屏風で二隻となっている国宝です。

左の屏風は曲がりくねった盆栽のような風合いの松が二本、右側の松は堂々とどっしりとした立ち姿の一本の松が描かれています。

これらは墨の黒と金のみで描かれ、雪の白い部分には筆は入れてありません。

お雪の幻

あるとき応挙の夢に亡き妻のお雪が現れました。

ふと足元を見ると足がありませんでした。

「お雪の幻」は応挙が夢で見たこの姿を忠実に描いたと言われています。

ここから脚がない幽霊が始まったようですよ。

藤花図屏風

藤花図屏風」は1776年に描かれたこちらも六曲一双の屏風で二隻です。

左の藤のつるは横に這うように伸びているのに対し、右のつるは縦に上に上に向かっているようです。

藤のつるが自由奔放に曲がりくねりどこまでも続いているようです。

本来の藤は別の植物に巻き付いて成長していくはずですので、ここでは敢えてそれを省いているのでしょう。

この藤の枝や幹部分は「付立て」の技法(輪郭を描かずに筆に濃淡の違う墨を含ませて一気に描く技法)を用い動きのある力強さを表していて、花の部分は繊細に丁寧に描かれています。

牡丹孔雀図

1771年に描いた「牡丹孔雀図」で後ろの牡丹も立体感がありますが、孔雀の羽や頭部の描きこみに様々な技法が使われ、色の表現には新しい絵の具を積極的に取り入れています。

近くで見るとわかるのですが、今までの日本画にはない凄さがわかります。

仔犬図

どうですかこの「仔犬図」の愛らしさといったらありません。

応挙は犬好きで多くの子犬の絵を残しています。

伊藤若冲や弟子の長沢芦雪も子犬を描いていますが、あなたはどの作品が好みですか。

群鶴図屏風

1772年制作の「群鶴図屏風」です。

多くの絵師が鶴を描いています。

鶴は大きくて、優雅で、動きがゆっくりしている鳥です。

写生するのにもとても向いた鳥だと思います

応挙の特色

沈南蘋の写生による制作に強く影響を上けてこれを重視していたことがうかがえます。

いつも懐には「写生帖」を忍ばせ暇さえあれば自然の花や鳥そして昆虫などもスケッチしていたのです。

「花鳥写生図」

写生していた「花鳥写生図巻」が現存しているがなかでも昆虫の写生は驚くほど緻密に描いています。

「写生帖」

応挙はこのような写生を元に日本画の伝統的なモチーフを琳派を思わせるような装飾性豊かな作品を多く残しています。

おいたち

1733年、円山応挙(藤原岩次郎)は丹波国南桑田郡穴太村、現在の京都府亀岡市曽我部町で農家の次男として生まれました。

10代の後半に、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の弟子になりました。

20代になったころ京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商店で働き始めます。

ちょうどそのころに尾張屋でオランダ渡来の「覗き眼鏡」を取り扱うようになりました。

これは箱に凸レンズが取りつけられていて、レンズを通して45度に傾けた鏡に映った「眼鏡絵」を見ると立体的に見えるという玩具です。

「眼鏡絵」は文字や絵を左右対称に描いたもので、渡来品だけでは数が少なかったので、店主は応挙に眼鏡絵の制作を依頼しました。

「眼鏡絵を覗く様子」

応挙は日本の風景の眼鏡絵を制作しながら西洋の遠近法を学びました。

同時にそのころ日本に中国より沈南蘋の画風が伝えられていて写生を用いて写実的に描く画法も学びました。

尾張屋は三井寺円満院にもつながりがあり玩具を収めていたことから絵師の応挙存在を門主の祐常が知るところとなりました。

祐常から植物画の依頼をされた際に応挙は常に懐に「写生帖」を忍ばせていて、暇さえあれば野草や鳥、昆虫などを熱心に写生していました。

ここから応挙の写生を元にして絵を描く画力が上がっていったようです。

祐常は応挙に「牡丹孔雀図」「七難七福図」「大瀑布図」なども制作させていますが、祐常は亡くなってしまいました。

「七難七福図」
「大瀑布図」

その後、名声を高めていた応挙は豪商・三井家などの有力な支援者を持つことができました。

その時代には応挙の元に弟子たちが集まり、円山派と呼ばれる工房を作りさらに大きな絵を受注するようになりました。

弟子たちと共に「雲竜図屏風」「藤花図屏風」などの大きな作品を手掛けていきました。

「雲竜図屏風」

代表的な弟子に呉春長沢芦雪森徹山源琦などがいます。

1786年ごろ「雪松図」を制作、金比羅宮や大乗寺の障壁画や襖絵を受注。

1788年に天明の大火が起こり京都の大部分が消失してしまいました。

京都御所も焼け落ちてしまいました。その京都御所の復活に応挙たちが関わりました。

その後病気になりましたが、天明の大火により制作が止まっていた金比羅宮や大乗寺の絵を完成させました。

そして、大作「保津川図屏風」を最後の作品として完成させた後、1795年63歳で亡くなりました。

「保津川図屏風」

まとめ

応挙はたくさんの素晴らしい作品を残していますが、私が注目してほしいのはやはり動物たちの絵になります。

子犬たちや昆虫類、そして鳥ですね。

鳥はじっとしていることがないので、このように詳細に描くのが難しかったと思いますが、翼なんかもしっかりと忠実に描かれているのにはビックリです。

中でも小鳥は動きが激しく、現代の双眼鏡もない時にここまで詳細なスケッチをしていたと思うと驚きでしかありません。

群鶴図屏風に描かれている鶴はタンチョウですが、この時代には冬になると本州でも見られたのでしょう。

今では、北海道に行かないと見ることは叶いませんよね。

ここまでご覧いただきありがとうございました。