日本の動物画家の有名どころ『長沢芦雪』を簡単に解説!

こんにちは。
画家の佐藤 静です。

芦雪は鳥もたくさん描いていますが、子犬が好きなようで可愛い子犬が
数匹で戯れている絵が多く残っています。

犬好きの方は必見ですが、そうでなくても芦雪の子犬を見たら
絶対癒されますよ!

さあ、どうぞご覧ください。


長沢芦雪(ながさわろせつ)1754年-1799年

長沢芦雪は1700年代後半に京都で活躍した絵師です。

現在でも奇想の画家のひとりとして人気があります。

円山応挙の弟子でありながら、応挙の柄よりも大胆な構図を得意としています。

芦雪の作品紹介

「百鳥図」

この「百鳥図」実際には100羽もいないでしょうけど、沢山いますよという意味で百と言っていたようです。30羽位いますか? 

描かれている鳥はオシドリやマガモその他のカモたち、奥にはシギ、右側に白いサギが見られます。

そして、どーんと真ん中に大きな猛禽類。他の鳥たちが逃げるようすがないので、たぶんトビでしょうね。

「岩波群鳥図襖」

この「岩波群鳥図襖 」は波があることから、ここは海のようすですね。

岩には3羽の鳥がいて、そこに仲間の鳥がやってきます。

「牡丹孔雀図」

この「牡丹孔雀図」何か見たことのある作品ではないですか。

円山応挙にも同じ牡丹孔雀図がありました。

応挙の作品の模写をしながらも、自分なりに孔雀が下の方を見ている感じに体を捻っています。

「朴木の中の鳥と牡丹」

「朴木の中の鳥と牡丹」は「牡丹孔雀図」から構想を得て描いたのでしょう。

よく似た構図ですが、たくさんの鳥たちが描かれてにぎやかですね。

ルリちゃん

僕の仲間がいっぱいいるよー

「南天に雪兎」

「南天に雪兎」は雪の降った日南天の下に白と黒の兎がいてコントラストを作っています。

兎はまん丸として、寒そうに感じられますね。

「白象黒牛図屏風」

「白象黒牛図屏風」は芦雪らしさがよく表れた作品になっています。

牛と象両方とも画面からはみ出しています。こうすることで体の巨大さを表現しています。

さらに、小さな犬とカラスを配置し、クローズアップしていますね。

そして、黒い牛の横にいる犬は白く、白い象の背中には黒いカラスとコントラストをつけて主題を引き立てていますね。

「幽魂の図」

「幽魂の図」こちらも応挙の「幽霊図」をまねて描いています。

応挙のようにやっぱり足は描いていません。

「薔薇図襖」

「薔薇図襖」は動物好きな芦雪らしく、野ばらの奥の水辺に猫が描かれています。

この猫たちは魚を狙っているようです。

にゃんこロリン

やっぱり、魚が食べたいにゃ~

「狗児図」

何といっても犬の絵が人気ですね。

これは「狗児図」ですが描かれているのはほとんどが子犬です。

応挙も描いていますが、芦雪の子犬は如何でしょう。

ここにもあるようにお座りする子犬をよく描いていますね。

「白象黒牛図屏風」に出てきたお座りする犬を拡大してみます。

お座りしてる~

ワンの助

なかなかこんな格好で犬を描く画家はほかにいないでしょー

「薔薇蝶狗子図」

「薔薇蝶狗子図」も体を捻って寝そべったり、お座りしている姿は犬好きの方から見たらかわいらしくてしょうがないといった感じでしょう。

「降雪狗児図」

「降雪狗児図」上の「薔薇蝶狗子図」にいた黒い犬がそのまま登場しているかのような、同じポーズをとっています。

こちらの「虎図、龍図襖」は芦雪を代表する作品の一つとなっています。

和歌山県の無量寺に収められています。

右の龍の顔の迫力と、指の爪が大きく描かれていて恐ろしい感じがします。

左の虎は岩からジャンプし体を捻ったような姿で、躍動感があり、顔はこちらを向いて前足が大きく描かれて奥行を感じます。

おいたち

江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙の高弟です。

1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山の武士の家に生まれました。

1778年ごろ応挙に弟子入りします。このころから芦雪を名乗ります。姓については「長沢」「長澤」、号については「芦雪」「蘆雪」の両様の表記が行われています。

応挙の弟子の多くは町人で、武士の芦雪は異色の弟子でした。

このころから落款に「魚」を使うようになりました。

芦雪の落款「魚」

1782年の「平安人物誌」の画家部門に名前が載るようになり、名前が知られるようになりました。

すでに弟子の中では応挙に次ぐ力量であったようです。

応挙が若き頃親交のあった愚海和尚と交わした約束、”もし寺を築くことがあれば腕を振るう”というこ

とを思い出した愚海和尚は、大津波で被災した南紀の無量寺の再建成就のために応挙に是非絵を描いてほしいと依頼してきました。

応挙はこの仕事を芦雪に任せます。

芦雪は1786年から1787年までの10か月間の間に芦雪生涯の大作を含む約270点もの作品を無量寺や成就院、宗堂時、高山寺で描きました。

無量寺では芦雪の代表作である「虎図」「龍図」を描いています。それ以外にも「群猿図屏風」「寒山拾得図」などを手がけました。

1788年に天明の大火により京都市街の8割が消失し、京都御所も焼け落ちてしまいました。

1790年に京都御所再建の際に襖絵を応挙らと一門をあげて描きました。

1795年には大乗寺の「群猿図襖」を描いています。

同年応挙が亡くなります。

しかしその後芦雪の運も尽きてしまいます。

1799年応挙が亡くなって僅か4年後に芦雪も45歳で亡くなりました。

亡くなった原因に自殺説、毒殺説があります。

芦雪は自由奔放な性格で酒好きでした。

その性格故に応挙から3度、破門されたと言われています。

破門されても戻ってきているのは、その画力の高さを応挙が認めていたのでしょう。

絵の特徴

師応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれています。

芦雪の画風は概して快活で明るく、自由奔放で黒白のコントラストがある作品や、大小の極端な対比を描いたもの、写実を無視した構図など応挙の作風から逸脱しています。

晩年の頃からは時折、『山姥』のような作品からも見受けられる陰惨なグロテスクへの傾倒が印象付けられており、晩年期においての芦雪の心境の変化についてさまざまな憶測が拡げられています。

まとめ

長沢芦雪は師の円山応挙にも勝るとも劣らない画力を持った絵師でしたが、彼の独特な性格から破門されたり、晩年の不審な死に方など波乱万丈な人生であったようです。

しかし、彼の独特な世界観や芦雪犬など今日でも高い人気があります。

ここまでご覧いただきありがとうございました。