海外の動物画家のジョン・ジェームス・オーデュポンの名前を聞いたことがある方も
いらっしゃるでしょう。
有名な方ですよね。
彼の有名な画集にはアメリカの鳥たちがどっちかと言うとイラスト的に描かれています。
中には、幻の鳥がいます!
さあ、じっくりご覧ください。
Contents
ジョン・ジェームス・オーデュポン 1785年-1851年
ジョン・ジェームズ・オーデュボンは、1827年から1838年までの4つの膨大なボリュームのシリーズで、北アメリカに生息する鳥類435点を原寸大で写実的に描いた銅版画集『The Birds of America(アメリカの鳥類)』を出版しました。
著名な画家であることに加えて、オーデュボンは偉大な自然主義者であり、彼の業績はその後の自然保護活動に大きく貢献しました。
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オーデュポンの作品を見てみよう
ジェームズジョンオーデュボンの初期の生活
オーデュボンは、1785年4月26日、カリブ海に浮かぶフランス領サン=ドマング(現ハイチ共和国)に生まれ、フランス本国に移住。
アメリカに定住
フランスでは、オーデュボンは自然の中で時間を過ごし、しばしば鳥を観察していました。
1803年、父親が息子がナポレオンの軍隊に徴兵されるのではないかと心配になったとき、アメリカのフィラデルフィア郊外の農場を購入し、18歳のオーデュボンを農場に送りました。
そこで名前をジョン・ジェームズ・オーデュポンと変更し、田舎の農場で暮らしました。
狩猟、釣り、そして鳥の観察への情熱にふけりました。
彼はイギリス人の隣人の娘ルーシー・ベイクウェルと結婚した直後、二人はオーデュボン農場を離れてアメリカのフロンティアに足を踏み入れました。
ケンタッキー州でオーデュポンが経営していた製材業な1819年恐慌による金融危機の影響で倒産してしまいました。
オーデュボンは、妻と2人の幼い息子がいたので、深刻な経済的問題に直面しました。
彼はシンシナティでクレヨンの肖像画を描く仕事を見つけることができ、彼の妻は教師としての仕事を見つけました。
オーデュボン一家はミシシッピ川を下ってニューオーリンズに行きました。
彼の妻は教師の職に就き、オーデュボンが鳥の絵に専念している間、なんとか家族を支えました。
「アメリカの鳥類」イギリスでの出版
アメリカの鳥の絵の本を出版するという野心的な計画にアメリカの出版社の興味を引くことができなかった後、オーデュボンは1826年にイギリスに渡りました。
オーデュボンは、英国社会で高く評価されるようになり、彼の芸術的才能と鳥に関する優れた知識により、英国を代表する科学アカデミーである王立学会の研究員に指名されました。
オーデュボンはロンドンで彫刻家のロバート・ハヴェルと出会い、彼の協力により1838年「アメリカの鳥類」を出版することになりました。
「アメリカの鳥類」に使用する紙の巨大なサイズのために「ダブルエレファントフォリオ」版として知られています。
この本は、これまでに出版された最大の本の1つで、各ページの高さは39.5インチ(100.3cm)、幅は29.5インチ(74.9cm)そのサイズは、本を開いたとき、幅は4フィート(122cm)、高さは3フィート(91.5cm)を超えていました。
オーデュボンの描いた絵を正確に銅板にエッチングされました。
コンパクト版の出版
この「アメリカの鳥類」は大変大きく高価だったために販売数はあまり多くなかったのです。
豪華なダブルエレファントフォリオエディションの制作の後、オーデュボンはより小さく、はるかに手頃なエディションを作成しました。これは非常によく売れ、オーデュボンと彼の家族に非常に良い収入をもたらしました。
Ornithological Biography「鳥類の生態」の出版
「アメリカの鳥類」の成功を受けて、オーデュボンはニューヨーク市の北川にあるハドソン川沿いの14エーカーの土地を購入しました。
彼はまた、スコットランド人の博物学者ウイリアム・マクギリヴィレイとの共著で「アメリカの鳥類」に登場した鳥についての詳細な解説書としてOrnithological Biography「鳥類の生態」を最終的に5巻出版しました。
終末
1843年、オーデュボンはアメリカの哺乳類を描くために最後の大遠征に出発し、アメリカの西部領土を訪れました。
彼はセントルイスからバッファローハンターと一緒にダコタ準州に旅行し、「北アメリカの哺乳類」を手がけましたが、東に戻ると、オーデュボンの健康状態は悪化し始め、1851年1月27日にハドソンの彼の自宅で亡くなりました。
この作品はオーデュボンの息子たちによって完成され、第2巻はオーデュボンの死後1851年に出版されました。
制作の特徴
その当時、写真技術は黎明期でしたので、動植物の記録を残すとなれば絵画しか手段がありませんでした。
そこで培われていたのが、対象となる動植物を精緻に記録する剥製画の手法です。
オーデュボンは鳥を描く独自の方法を編み出しました。
まず、彼は鳥を散弾で狩猟し、次にその鳥を針金を使って自然な姿勢に支えました。
これは、標本を硬いポーズではなく自然な形に見えるように整えてから描くという、多くの鳥類学者の一般的な方法とは異なっていました。
彼が描いた鳥の絵は、鳥が生息している自然の状況を忠実に表現して生き生きと描かれています。
鳥が餌を食べたり、狩りをしたりしているときに、鳥がとる自然な動きを取り入れて描いています。
同時代の画家による鳥の図鑑のような静物画技法とは対照的に、オーデュボンは野外観察に重きをおき、鳥を自然の一部として絵を描いていました。
初期には主に水彩画でフクロウやサギを描き、更に羽に柔らかさを加えるために、色のチョークやパステルを使っていました。
すべての種は等身大で描かれており、オーデュボンはページサイズ内に収めようと努力したため、大きな鳥のポーズがねじれています。
小型の鳥は通常、ベリー、果物、花の付いた枝に描かれています。
彼は、一つの鳥の特徴を表すため、1 枚の絵に複数の鳥のポーズで描いています。
大型の鳥は、地上の生息地や切り株に止まっていることが多くなっています。
彼は頻繁に鳥の巣や卵を描き、時にはヘビなどの天敵も描いたりしました。
彼は通常、オスとメスのバリエーションを描き、時には幼鳥も描いています。
この「アメリカの鳥類」は今日でも鳥類図版の最高傑作と考えられています。
オーデュボンの水彩画を元に435枚の彩色銅版画が、大型図版エレファント・フォリオ(畳半分くらいの大きさ)として収められ、一羽一羽の鳥が実物大の大きさで描かれているのも大きな特色です。
オーデュポンの影響
オーデュボンが活躍した19世紀前半といえば、地質学や生物学が大きく発展した時代で、その果実を受け継ぎ、1859年、満を持して発表されたのがダーウィン『種の起源』です。
「アメリカの鳥類」は当時でも一般人の年収をはるかに超える極めて高価なこの画集の一冊が、2010年10月7日、ロンドンのサザビーズ(Sotheby’s)で競売にかけられ、印刷された書籍としては当時、史上最高額の732万1250ポンド(約9億6500万円)で落札されました。
一方米国では、オーデュボンはアメリカの自然保護に関心を寄せた最初の人物とみなされており、 アメリカ最大の自然保護団体は全米オーデュボン協会(National Audubon Society)と命名され今日まで続いています。
オーデュボンの鳥類学と自然史への影響は広範囲に及び、その後の鳥類学の著作のほとんどが、彼の芸術性と高い水準に触発されました。
野外観察には多少の誤りがあったものの、彼は野外記録を通じて鳥の解剖学と行動の理解に大きく貢献しました。
「アメリカの鳥類」は今でも書籍芸術の最高傑作の一つと考えられています。
オーデュボンは25の新種と12の新亜種を発見しました。
人間活動による悲劇
オーデュボンが描いた当時から今日までに絶滅が確認されている5種をはじめ、多数の絶滅危惧種や危急種が掲載されています。
その中には、鳥好きならみんな知っている、それでいて実際に生きている姿を見たことのある人はもういないリョコウバトの絵も。
我々が見ることのできる写真や標本では、リョコウバトがどんな生活をしていたのかをイメージすることは難しいですが、オーデュボンの絵では、そのリョコウバトのつがいが、食べ物の受け渡しでもしているかのような仲睦まじい姿で描かれています。
まとめ
フランス人であったオーデュポンはアメリカの鳥や動物に魅せられ、数多くの姿を現在に残してくれています。
それと同時に自然保護運動の先駆けとなり、オーデュポンの名を冠した団体も今も活動しています。
19世紀前半にはこのように普通に生活していた鳥類や哺乳類も毎年のように絶滅しています。
私たち一人一人が今すぐに行動を起こしてほしいと、オーデュポンも願っていることでしょう。
ここまでご覧いただきありがとうございました。
こんにちは。
画家の佐藤 静です。